プロライターが教える|学生のライティングにたった一つ足りない「読み手にとっての価値を考え*ない*」視点の補い方

背景

ググって来た方には,ワタクシが何者なのか判らないでしょうから. ええと,紙媒体の商業誌に,独自の視点で解説を加えた雑文を寄稿したりしています. さほど社会的影響力があるとは思えない,狭い分野ではあるのですけれども.

商業誌っていってもピンキリですから…. 主戦場は,概ね数万部の下の方くらい, ちょっと気の利いた本屋なら,地方都市でも,工学系の雑誌棚にはありそうな媒体です.

一応,持ち込み記事よりも,巻頭特集やら連載やらの依頼のほうが多いです. 記憶にあるかぎり,少なくとも3社の依頼に応えたことがあります. 兼業とはいえ,プロの端くれではあるのでしょう.

導入

どんな職業に就こうとも,世の中,文章で人に説明することからは逃げきれません.

ワタクシの至近のネタで恐縮ですが,ワタクシの家内は,文章執筆から遠い生き方をしていました. しかし,子供を授かって幼稚園に入れようとしたら,志望動機を完結に書けと願書にあって卒倒していました. 子供が小学校に入ったら,PTAで広報委員に割り当てられて広報紙を作る羽目になって,もんどり打っていました.

無論,子供を作らなければ,こういうことからは逃げられます. まあでも,どんな生き方をしたとしても,似たようなものでしょう.

どんな職業に就こうとも,世の中,文章で人に説明することからは逃げきれません.

ゆえに,学校では,特に,総仕上げとなる大学/大学院では,物書きのテクニックをいろいろ指導されます. されるはずです. たぶん. 指導教官の熱意に依存するとはいえ.

問題

物書きから,現代のオトナは逃げ切れない. ならば,会得するしかないのですが.

そこを納得すると,次なる疑問や課題が湧いてきます.たぶん. 学生(もしくは,プロにならなかった人)と,曲がりなりにもプロになってしまった人との違いって,何なのだろう. 物書きのプロの,特異的な部分って何なのだろう. プロでない人が,プロになるためには何をすればよいのだろう.

ここは,意見が分かれます. 一つの見解は,「足りない部分はクリスプに抽出可能で,メソッドを定義して,繰り返し練習すれば不足を補える」です. 例えば,このエントリが典型かと思います.”プロライターが教える|学生のライティングにたった一つ足りない「読み手にとっての価値を考える」視点の補い方

ワタクシは,この種の見解を全否定する立場は取りません.

アマチュアと職業ライターの違いは「切り口」のみ

というのはまさにそのとおりだと思います.

読み手にとって価値がなければ、誰も読んでくれません。

というのも,全くその通りです.

ですが,自分が語りたいものが”読み手にとって価値があるもの”かどうかを知るのは,実はとてもムズカシイものです. 読み手が,どう考えても学内,極端な場合,指導教官で済むような文章であれば,この設定は簡単です. 先ほどのワタクシ事を引いてくるならば,願書の志望動機は,幼稚園の先生しか読みません. これも簡単です. 読み手と書き手(である自分)は,コンテキストを共有しています.

しかし,ライティングの本当の怖さ,難しさは,”共有の不在”だったりします. 自分とコンテキストを共有していない不特定多数に対して,どのように自分の知識を届けるか. そこには,「どう判ってもらうか」「何を書くべきか」「読み手にとっての価値はなにか」といったような判断材料が,少なくとも乏しいか,もしくは全く存在しません.

徒弟制度の範囲で済むようなライティングであれば,「足りない部分をクリスプに抽出し,メソッドを定義し,繰り返し練習」で,おそらく済みます. しかし,それは学会,勉強会などタコツボのなかの能力であって,プロが備えるライティング能力とは一致しません.サブセットです.

提案

このようなコンテキストの非共有は,対象読者の別を問わず起こります. 専門分野を問わない一般新聞紙上などでは,常に起こります. しかし,専門分野を対象としたライティングでも,しばしば起こります. 内容が斬新で分野横断であればあるほど,興味を持つ人が増える反面,コンテキストを共有できる人が減るからです.

本当に悩ましい問題ですが,このような問題に,古来から常にさらされている分野があります. それは,芸術の分野です.

ワタクシは,芸術分野の才覚はないので,専門家のブログから,本エントリの文脈で使えそうなものを引用します.

自意識のセーフティネットセーフティネットを破って

多くの場合,芸術系の表現ほどは,自意識が現出することはないかもしれないとは思います. しかしながら,すべからくの表現は,それがどれだけ事実の描写に務めたものであったとしても,つまるところ,自意識の現出です.

Midas  絵画とは「この私には世界はどう見えているか」を他人に知らせ共有するもの。そもそも「こんな私を見て!」の人が上手くなるわけがない(才能以前の問題)。 2013/02/25

まあつまりは,そういうことなのです. 絵画だけではありません. 読み手は,”あなた”に興味はありません. “あなた”が描いた世界に興味を持てるか否かには,かろうじて興味を持ってくれます.

何かを学んでいる,理解しようとしている. そんな段階のときには,”私”の努力を伝えたくなります.”私を見て”と.

共有できるコンテキストが少ない時にも,自分が述べたいことではなく,自分自身を担保にしたくなるものです. (最近でも,国と国との外交交渉の場面で”trust me” と言った首相がいたような気がします.)

そんな気分のときでも,「どう判ってもらうか」「何を書くべきか」「読み手にとっての価値はなにか」は考えつきます. でも,読み手には,この歪が伝わります. 読み手も,当該分野の知識が足りないかもしれませんが,地頭としてバカではありません.

メソドロジーの立場を取るブログエントリを全否定するつもりはありませんが,しかし,プロとアマチュア(典型は学生)との差は,テクニックではありません.

文章として表現する分野について,追求することの快楽と苦痛に苛まれつつも,足元をひたすら掘り起こす覚悟と,その結果が,差として現れます.

なので,一枚ペラの紙を埋めるだけでなんとかなる話では,おそらく,ありません.

このエントリは師走に入ってから書いています. そろそろ,日本の大学では,卒論,修論が追い込みの季節だろうと思います. それに合わせて,テクニック系の記事がオンラインにつけオフラインにつけ,増えるだろうと思います.

ワタクシも,メソドロジーは割と好きです. これをやるだけでプロに成れるのか,なんて思うと,夢が広がります.

ですが,少なくとも専門分野向けの文章表現についていうならば,諦めたほうがよいと思います.

プロとそれ以外の決定的な差は,「頑張っている私を見て」と「この私には世界はどう見えているか」との視点の違いです.

無論,読者への配慮も必要です. が,それは読者に対して決定的に響いてくるものではありません.

そしてジャンルを問わず表現は結果的に、「この私には世界はどう見えているか」を示し他人に共有を促すものに反転するのだと思います。

もし読者が学生さんであるならば,この相反転を意識しながら,指導教官の論文を読むと得られるものが多いはずです. それが,プロの文章に必要なものです.

プロが行う「この私には世界はどう見えているか」を述べるには,「自分自身の足下をひたすら掘り起こしていくしかない」のです. 地道に. たぶん指導教官がなさっているように.

蛇足

師走になってから,卒論・修論で死んでいる学生さんたちに,いまさら言っても,たぶん直近の締切には間に合わないでしょうけれども.

…まあ,ほら,「どんな職業に就こうとも,世の中,文章で人に説明することからは逃げきれません.」ので,いつか役に立ちますよ….たぶんね.きっとね.おそらくね.